兄と弟

頼もしいお兄ちゃんです。

昨夜から、けんはすぐにもとのけんに戻った。立ち直りの早い猫で何よりである。

それにしても、けんはもとから体がでかいわりにかなり臆病なところがある。僕らのところにやって来たときも、こうが真っ先に慣れてくれたのに対して、思い返せば、けんは最初のうちはずいぶん警戒していたようにも思う。当初、こうが積極的に甘えてくるので僕らもこうの名前をたくさん呼んでいたからだろう、けんが自分の名前を「こう」だと思っていたようだったのは、いまにして思えば笑い話でもあり、少し悲しいというか切ない感じのする思い出ででもある。一方、その臆病さの裏返しでもあるのだろうが、相当に甘えたさんで寂しがり屋のところもあって、いまではこうとは別の形で積極的に甘えてきてくれる。けんの甘え方は独特であり、大きな体をより膨らませるような感じで甘えてくる。つまりお腹を持ち上げて歩くのであるが、これは初期の頃、よくお腹を撫でて可愛がったことの名残なのだろうか。お腹を持ち上げているので背中が盛り上がり、膨らんだように見えるというわけだ。この体勢でゆっくり歩いて僕らに近寄ってくる。お腹を撫でてやると、喜んでごろごろ言いながらくねくね体をねじらせて、さらに歩く。そうやって家中をくるくる歩き回りながら、最終的にはころりんと転がる。こちらは中腰でお腹を撫でてやりながらついていかなければならないので、けっこう体力の要ることではあるが。

ところで、わが家にやって来たときから、けんのほうが少しからだが大きかったので、最初はけんがお兄さんなのかと思っていたのであるが、当初、けんがこうにやたらと甘えていたこともあり(けんがこうのお乳を吸っていたのも、いまや懐かしい思い出である)、すぐにこうのほうがお兄さんなのだなと思うようになった。いまでも新しいおもちゃや食べ物などは、まずこうが試してから、けんに譲ってやっている。昨日の早朝も動き回るけんをこうは何度もなだめてやっていて、頼もしいお兄ちゃんだなとあらためて感じた。


本日は平和な休日。昼から少し買い物に出かけるが、ファミリー向けのお店はどこも満員だ。結局お目当てのところはあきらめて、ショッピングセンターで買いものし、ラーメンを食べて帰る。帰って「ナポレオン [DVD]」の前半を見る。兵学校時代のエピソードからトゥーロンでの勝利まで。無声映画なのでしんどいかと思いきや、想像以上に楽しんで見れた。「三人の神」、マラー、ダントン、ロベスピエールがかっこいい。議会でのエピソードも戦闘のシーンも、サイレントながら(だからこそ?)大迫力である。後半はまたの楽しみにとっておく。


ミシュレ以来150年の歳月を取り戻すべく、この連休からフランス革命事典〈1〉事件 (みすずライブラリー)に突入。フュレとオズーフによる「序文」はとても明晰で、大変勉強になった。

第五共和政は、一九五八年に一種のクーデターによって生まれただけでなく、一九六二年に普通選挙による大統領の選出を制度化した。……/同じ時期に、法律が憲法に合致しているかどうかの審査を任務とする司法団体が配置され、速やかに根をおろした。……主権者たる人民の力を、市民の自由に危険をおよぼさないやり方で、アメリカふうに、多くの点に分けることが課題なのだ。憲法院の権限と役割が増加し、憲法院は何年か経つうちに第五共和政の基本的な制度となるにいたった。この進化はほとんど自然のようにみえるほど規則的だったが、それはまた、一七八九年以来われわれの歴史が形成してきた共和主義の精神との断絶でもある。憲法事項にかんして立法議会に優越する特別の権力という観念は、じっさい「チェック・アンド・バランス」の論理と同類のものだ。それはたしかにモンテスキュー以来、フランスでは貴族の文献のなかにあるが、しかしフランス革命にかかわった人々とその後継者たちの合理主義とは異質のものである。憲法院がたんに規制だけでなく、さらに立法者とのかかわりで真の抑止の役割も果たすかぎりで、それは……革命的であると同時に共和主義的な、周知の立法中心主義とは矛盾する精神に由来するものだ。/立法権の弱体化、普通選挙による執行権の選出、合憲性の審査。これらが、われわれの歴史の最近の三〇年間における共和主義の正統原理との三重の断絶の特徴であった。……

そうか、そういうことだったのか。フュレとオズーフは、この断絶こそがフランス革命の忘れられた諸側面との出会いの機会をもたらすとして、コンドルセとシエースの議論を例に挙げている。事件・人物・制度・思想・歴史家と全七巻、先は長いが少しずつ勉強していきたい。