連休

ふくろ入りしたこう

世間では連休は終わったと途端に回顧モードだが、残念ながら俺はまだ連休中である。とはいえ、根が小心者なので、「連休明け」「連休明け」と新聞やテレビが連呼しているのを聞くと、ひとりだけズル休みをしているような罪悪感にさいなまれながら、ああ少し休みすぎたかなあと妙に肩身の狭い昨日今日である。

初夏のような素晴らしいお天気に恵まれた先週末の土曜日。Sさん、Kさん、A女史をお招きして鍋を囲む。なぜ鍋になったかというと、まだ寒かった3月くらいに企画していたのが延び延びになっていたからなのだが、日が落ちると気温が下がってきて、鍋でもさほど違和感はなかった。最初は驚いて隠れていたけんこう兄弟も、少しずつ顔を出し、お客さんのかばんの匂いをふんふん確認。例によって酔っ払いジェームス・ブラウンのビデオを大音響で流したりしていたのでふたたび隠れてしまったが、あのまま静かに宴会をしていたら、もう少し近くまでやって来ていたかもしれない。深夜、みんなを送って戻ってきた僕の顔を見てけんこう兄弟が逃げる。お客さんが来るといつもの雰囲気とは違うから別人と感じるのかなあ。

週が明けてからは少し肌寒い曇がちな日々。千円高速で大渋滞のなかを名古屋へ、そして神戸へ。深夜のドライブの後、待ちかねていたけんこう兄弟と家族揃って夜更かしを楽しむ。

鮎川信夫詩集〈現代詩文庫〉

鮎川信夫詩集〈現代詩文庫〉

 日本には中途半端なところから始めてよいものなど一つもないのである。すべてのものを徹底的に第一歩から築いてゆかなければならない。焼け残ったものは焼き払うべきである。すべて灰燼の中から始めるべきだ。われわれの詩を書く出発点は、すくなくともそういうものである。
(……)
 われわれの最も大切な計画書は、いつも白紙のままで置かれている。なすべき何事かを発見するまでは、なすべき何事も持っていない。われわれの精神は国家や社会のあらゆる期待の外側に棲んでいる。自分自身の希望や夢からさえも、屡々離れてゆくのである。凡庸な精神が、さまざまな種類の愛国心という盲目的な鎖で自らの足を縛る時、詩人はむしろやすやすと祖国をあとにするものである。

鮎川信夫「祖国なき精神」(1950)より。歯切れが良くてとても格好いい。たしかに、日本語の伝統とは、外国語との葛藤のなかで生み出されてきたものなのだ。なんか文学(文芸批評)が衰退して、こういう論点が忘れられてる気がするなあ。