写真3枚目

detti2006-04-18

Yくんに送ってもらった写真はこれで最後です。家のパソコンが崩壊しつつあり、画像がはっきりしないのですが、これはけんか? あってますか、Y本君!


ふらんす的ななにか。たしかにフランス的な知のあり方(あくまでイメージとしての)に対する漠然とした反感はあるのかもしれない。おそらく、どこかで知のあり方が変わったのだろう。人文主義教育に否定的な知のあり方、競争や効率といったエコノミクス的な概念に絶対的な価値をおく知のあり方に。


ねずみ王様のエントリーを見て思う。

ぼくはmayakovさんと同じ小学校だったのだが、ねずみ王様の書いているような世界は知らない。ぼくは、多分mayakovさんが住んでいたであろうところよりさらに山の上の、新興住宅地の団地で育った。ぼくらの学区には戦前からの高級住宅地や、県住や市住の立ち並ぶ少し古い住宅地の一角、ぼくの住んだ高度成長期に切り開かれたニュータウン、そして近世に始まる新田開拓の名残の残る一角と、多様な地区が寄り集まっていた。もちろん、ねずみ王様の書くような世界に住んでいた友人もいて、気が遠くなるほど広大な彼の邸宅では、野球をしたり、壁に思いっきり落書きをしたり、地下防空壕の跡で卓球をしたりして遊んだ。いっしょに遊んでいた友人たちの父親には、そういう大会社の役員もいたし、あるいはある種の集団の組長だったり、あるいは共産党系の組合の活動家だったり、社会党の市会議員もいたように思う。親たちの世界はそれぞれ隔絶されていたのかもしれないが、子どもらの世界には分け隔てはなかった。

ぼくらの通う小学校のあった神戸の東灘区は戦後になって神戸市に併合されたところで、神戸というよりもどちらかと言えば阪神間の文化に近く、かと言って東の芦屋ともちがう、独特の気風をもった街だったと思う。東灘は旧の行政区画で言えば住吉・本山・魚崎・本庄という4つの村と御影という1つの町が合併してできた区で、ぼくらの学区は旧住吉村の北部にあたる。終戦直後には、芦屋との合併により「甲南市」の設立を目指す人々と、神戸市への合併を目指す人々の間で、ずいぶんと揉め事もあったらしい。

いま、たまに実家に帰るたび、かつては色濃く感じられた地域の特色が、どんどん薄れていっているような気がする。もちろん、それはいまから振り返って感じることだが。東灘区は震災前よりも人口が増えている少数派の区の一つだが、人口増はマンション建設ラッシュによる他地域からの移住によるところが大きいとも聞く。だからどうだと言うわけではないが、日本中で画一化の進むなか、ねずみ王様の書くような世界が残っていてほしいような気もする。その世界のなかで生きたいとは思わないし、すでに『細雪』においてもその世界はすでに過去の世界として描かれているとは思うのだが。


けんこう兄弟は、最近、朝5時過ぎから走り回る。取っ組み合ったり追いかけあったり、ふすまやドアや壁にバンバンぶち当たるのだが、その騒音はよいとしても、果たして痛くはないのかけんとこう?