月曜日から…

シーツにくるまるこう

日曜日、家で遅くまで一人でビールを飲んでしまい、寝不足と酒のせいで終日だるい週の始まり。帰宅後、食事をすませてそのまま眠ってしまう。火曜日はS先生ご一行にお邪魔して、泣く子も黙るG園町を南へ北へ。帰ったのは深夜3時だった。さすがに水曜日はつらいが、KさんとP斗町でランチの後、K原町の某喫茶で打ち合わせをしたまではいいが、あろうことかあまりの暑さにそのまま二人で某ビアホールへ直行。結局ビールをしこたま飲んで、この日も帰ってすぐ眠る。そして今日木曜日は朝から東京へ日帰り。S先生、Kさんと打ち合わせ。さすがに今日はビールいらんな。

梅雨はまだ明けない。が、東京は晴れていて異常に暑かった。京都も今日は晴れた模様。しかし、また雨の予報が…。

実は金曜夜から不調を訴えていたY子。土曜日に予定をキャンセルして病院へ連れて行ったりしていたのだが、本日ようやく原因が判明。それほど大きな病気でなくてよかった。

けんこう兄弟は新洗濯機にすぐに順応したようで、まわっている様子を右に左に少し離れてふたりで見守っている。まん前から見たほうがいいようにも思うが、あまりと近すぎると良く見えないのかもしれない。肝心の人間の方がまだ順応できていなくて、久しぶりに(ノンアルコールで)家で夜をすごした今夜など、ふと洗濯機を見てそのでかさに驚いてしまった。けんこう兄弟に接するのも久しぶりの気がして、なんかもうみんなごめん。

聖職の碑 (講談社文庫)

聖職の碑 (講談社文庫)

大正2年8月26日から27日にかけて起こった、上伊那の中箕輪尋常高等小学校による木曽駒ガ岳(伊那側では伊那駒ガ岳)修学旅行登山の遭難に取材した小説である。校長以下教員3名、地元青年団9名、児童25名のパーティは急変した天候により稜線上で暴風雨にさらされ、暴風で吹き飛ばされた小屋跡に仮小屋を建設して天候の回復を待とうとするも、児童1名の死をきっかけにパニックにおちいり、校長の制止を振り払って暴風雨の中の下山を決行。パーティはばらばらになり児童9名、青年団1名が疲労凍死。そして身を挺して児童の救出に当たった赤羽校長もついに力尽きる。中アの名峰に刻まれた、歴史的な悲劇である。

なんというか、山岳遭難がなぜ起こったのか、その実情は、じっさいに現地を訪れてみないと何も分からないと感じた。新田次郎はこの遭難から60年後の同じ8月、同じルートを歩き、生存者や遺族をはじめ当時の関係者に取材し、あらゆる資料を収集してこの小説を書いている。巻末に収録された長い取材記にその一端を垣間見ることができ、大変興味深い。

伊那の中学校では、いま(小説執筆当時)も赤羽校長の遺志を継ぎ、夏に木曽駒(伊那駒)に集団で登り、「遭難記念碑」に花を捧げているそうだ。登山には準備が必要だ。山に登る2年生は、悲劇を繰り返さないために春から毎日トレーニングを積み、周到な準備と計画を重ね山の知識を蓄え、準備登山も行なったうえで本番に臨むという。なんというか、信州の山の文化の一端に触れた気がした。登山は文化であり、思想でもあるのだと、あらためて思う。