猫町

こう、寂しがらせてごめん

金土日と東京へ。労働政策とか中欧、バルト、EU政治とか。しかしいろいろと当てがはずれて、珍しくあまり飲まない出張であったが、結局ホテルで一人だらだらと飲むことになり、結果的にはあまり変わらなかった気もする。

特に何をしたというわけでもないのだが、帰るとやはり疲れていて、甘えてくるけんこうをよそに、少し眠ってしまう。しばらく眠った後、Y子と食事に出かけ、夜遅く帰ってまた眠る。今朝方、こうが珍しく布団にのって起こしに来たが、すぐ起きるからちょっと待ってなと言ってまた眠ってしまった。こう、ごめん。

猫町 他十七篇 (岩波文庫)

猫町 他十七篇 (岩波文庫)

なぜか無性に小説「的」なものを読みたくなって、帰りの新幹線で読む。『猫町』は1935年刊行。『氷島』(34年)以後にこういうの書いてたんだな。近代化の夢とその崩壊をキーワードに作品を読み解く清岡卓行の解説がたいへん面白い。ほかに『宿命』(39年)、『虚妄の正義』(29年)、『絶望の逃走』(35年)から散文詩アフォリズムを収録。しかし『月に吼える』とかなんとなく10代か20代前半かというイメージであったが、調べてみると31歳のときの出版であった。『青猫』は37歳。

声の祝祭―日本近代詩と戦争

声の祝祭―日本近代詩と戦争

ところで、これはとてもいい本であると思うのだが。『氷島』前後のことについて少なからず言及があったのを思い出してぱらぱらとめくってみる。朔太郎が亡くなったのは42年5月11日、すでに戦争は進展し、同月26日には文学報国会が設立される。

…イタリアと違って、マリネッティ流の《未来派国粋主義》は実質的にはこれといった運動を日本に呼び起こすことはなかった。それは日本におけるファシズム(及びテクノロジー)の後発性にも関わって、わが国になお《大多数》=群集という形成要素が未熟であったことに由来しよう。皮肉なことにその成熟をみるためには<大正デモクラシー>を経なければならなかったのである。しかも《大多数》の概念が成立したとしても、日本のファシズムの<表現>は、モダニズムの<変態>という体裁をとり得なかった。マリネッティの讃える《無政府主義者の破壊的な身振り》にしても日本の詩の《無政府主義者》は戦時下でもアナーキーな《破壊的な身振り》を披露することはあり得なかった。例えば『死刑宣告』の詩人萩原恭次郎、あるいは日本におけるシュルレアリスムを主導した北園克衛の転向・回帰を見てもよい。強いて言えば小野十三郎に表現方法の(戦前・戦中を通しての)一貫性が見られる程度である。しかしこれは、徹底的な思想弾圧と統制の後にそれこそ一〇〇%に等しい比率で国家公認文化団体に文学者たちが加入していったという情勢論だけで理由づけられる現象ではない。マリネッティの母国イタリアのようにモダニズム的にファシズムを表現することが、日本(及びドイツ)においては殆ど不可能だったからである。ジョージ・L・モッセた『大衆の国民化』の中で克明に分析しているように、ナチス・ドイツにおいては(とりわけヒトラー個人の美意識も反映して)前衛的な芸術運動は徹底的に弾圧され<退廃芸術>として抹消されようとした。その反面で合唱や音楽劇などの<国民的祭祀>は協力に推進された。この点は戦時中の日本もドイツと全く軌を一にしている。

名だたるモダニスト詩人たちがなぜ次々と「転向」していったのか、非常に難しい問題ではある。ともあれすでに国民詩・朗読詩運動が画期を帯び、朔太郎はその先駆として祭り上げられていった。朔太郎の病床中に企画され、死後出版された大日本詩人協会編『大日本詩集 聖戦に歌ふ』は「萩原朔太郎先生が病床にをられるのを慰問するための冊子」として作られたものであるが、著名詩人たちの戦争詩にまじって、朔太郎最晩年のエッセイ「大衆と詩文学」というエッセイが収録されているのが「不可解異様」であると坪井氏は言う。たしかにそこでは朔太郎は、国民詩は概して幼稚であり、軍歌や愛国歌謡を単に自由詩に書き換えたものにすぎないと揶揄しているからだ。

…朔太郎は、意図は別のものではあったが、やはり『氷島』の自序で<朗読>(彼の用語では《朗吟》)を読者に要請していた――曰く《読者は声に出して読むべきであり、決して黙読すべきではない。これは「歌ふための詩」なのである》と。彼は自身揶揄した朗読詩の流行に責を追う者の位置に祭り上げられた奇妙な格好になっている。『氷島』の《朗吟》…そこにはモダニズムの亜種としての<新古典>的な方法意識が介在していた。皮肉なことに朔太郎の意図とは関わりなくモダニズムはあっけなく退潮、時代は<朗読><文語><漢語調>の詩の流れを形成し始めていた。つまり、朔太郎は《退却》していなかったのである。

思えば『氷島』を「文学的後退」として批判した三好達治は、結果として戦争中には戦争詩を書くことになった。もちろん資料にもあたらずに軽々しく論じるべきことではないとは思うが、日本のモダニズムと朔太郎の「退却」、そしてファシズムの問題、大変興味深い問題である。